テーマ:歴史

京都紹介・・・祇園祭に昭和63年から32番目の山鉾として巡行開始した古い鉾の形態になる四条傘鉾

祇園祭には棒ふり踊りを行う傘鉾として綾傘鉾と四条傘鉾の二つが巡行している。この二つは籤改めでは傘一番、傘二番で巡行順位づけられている。非常に古い形態を持ち棒振り踊りは室町時代から始まったとされる風流(ふる)l踊りを原型にしている。そのうちの一つである四条傘鉾は傘の上に若松と御幣をかざし巡行で疫を若松に寄せて御幣で払うご神体を示している。…
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京都紅葉散策・・・芹生の里にある勢龍(せりょう)天満宮大銀杏の黄葉

京都北部の山里芹生は貴船奥の院から峠一つ越えたところにある。旧花脊峠から京都への若狭街道筋の一つになっている。この芹生に勢龍天満宮がひっそりと佇んでいるが、ここは2013.3.7.にも紹介した日本三大歌舞伎『菅原伝授手習鑑』に登場する武部源蔵の隠棲した寺子屋跡地と言われ、隠れた京都の観光地と言える。また、この時期はここの大銀杏が見事な落…
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京都紹介・・・京都の様々な歴史を秘めた国指定史跡船岡山

平安京造営の際、玄武の山として都設計の拠点となり、それに深くかかわった秦氏がINRIの暗号を秘めた船岡山は平安貴族の遊興の場となるだけでなく処刑場でもあった。応仁の乱ではここに西軍の陣が置かれたり、戦国の永正の戦では船岡城が築かれたりして激しい戦闘が行われている。また、信長の葬儀後その木像を安置する天正寺を山上に建てる計画を豊臣秀吉は進…
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京都紹介・・・堀川通から烏丸通間で今出川通から丸太町通間にある歴史石碑めぐり

京都の街はあらゆるところに歴史の痕跡が残されている。それらは石碑としてあるいは看板で示されているところが多い。そういう貴重な石碑を巡ると知らなかった地元の歴史が見えてくる。今回は烏丸通と堀川通間で今出川通と丸太町通間にあるそういう石碑の一部をご紹介してみる。 慶長天主堂跡(元誓願寺通油小路西南角) 旧本能寺近くの南蛮寺は良く知られてい…
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京都紹介・・・冬の菖蒲谷池(角倉光長・光由の造った人工池)

嵯峨野直指庵から嵯峨天皇陵にも通じる京見峠を越えると美しい人工池の菖蒲谷池がある。大覚寺から直指庵への道筋にこのことを顕彰する石碑と道標もあり史跡にしてもよい歴史を見せている。寛永年間(1624~44)に角倉了以と大覚寺法親王の遺志を継いで了以甥の角倉光長・光由が人工池を造り隧道で北嵯峨一帯の田畑を潤したという。直指庵からはおよそ20分…
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京都紹介・・・「本能寺の変」織田信忠自刃の地ゆかりの大雲院

本能寺の変(1582年)で織田信長が本能寺で自刃し、嫡男の信忠も二条新造御所で自刃して果てる。その信忠の菩提を弔うため二条新造御所跡に豊臣秀吉の命で建てられた(1587年)のが信忠の法号を冠する「大雲院」であったという。その数年後、秀吉の都市改造により寺は寺町四条下ルに移り、昭和になり繁華街の町中から1972年に高島屋の拡張に伴い東山の…
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京都紹介・・・石碑や伝承と墓が好奇心をくすぐる「本能寺の変」織田信長遺体の謎

「本能寺の変(1582年)」で織田信長と嫡子信忠が自刃して果て、信長の遺体は見つからなかったとされている。変当時の本能寺は北は六角、南は蛸薬師、東は西洞院、西は油小路に囲まれた寺域を持っており、現在は油小路通蛸薬師下ル(本能特別養護老人ホーム前)と蛸薬師通小川西南角に石碑で跡地が示されている。豊臣秀吉が寺町通御池下ルに移転させた現在の本…
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方広寺大仏殿と大仏殿緑地

天正14年(1586)に焼損した東大寺大仏に変わる大仏として、豊臣秀吉は高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏を方広寺に文禄4年(1595)に大仏殿を建造して完成させた。大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なもので大阪城天守の高さを上回るものであった。また、境内も現在の方広寺境内、豊国神社、京都国…
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「史跡方広寺石塁および石塔」と豊国廟

豊臣秀吉の史跡が方広寺周辺に残る。一つは1/11にご紹介した方広寺石垣の石塁で、それと豊国神社西方にある耳(鼻)塚と神社境内南東にある馬塚の二つの石塔が国の史跡に指定されている。豊臣秀吉の朝鮮侵攻「文禄・慶長の役(1592-1582)」で朝鮮軍民の耳や鼻を戦功の首級代わりとして持ち帰り、ここに供養したのが耳(鼻)塚と呼ばれている。馬塚は…
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豊臣秀吉の京都改造事業の一つ、方広寺大仏殿とその石垣

豊臣秀吉の京都改造事業はどれをとってもスケールが大きい。天正10年(1582)の本能寺の変後、秀吉は天正11年には柴田勝家を破り大阪城の築城を開始する。そして自らは京都の妙顕寺城に入り、天正14年(1586)に京都改造に着手、聚楽第の造営が始る。そして天正16年(1588)に方広寺大仏殿の造営に取り掛かる。50mもの高さがある大仏殿と東…
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奇岩が多く変化にとんだ「湖南アルプス」鶏冠山から天狗岩、耳岩、狛坂寺跡「北峰縦走」での景観

JR草津駅から帝産バスで上桐生まで行き、鶏冠山から天狗岩、耳岩、白石峰、狛坂寺跡(磨崖仏)、南谷林道出合、逆さ不動、オランダ堰堤を経て上桐生に戻るコースを歩いた。山上や尾根からの眺めが素晴らしく、途中奇岩の変化を楽しむことができた。史跡狛坂寺跡磨崖仏、逆さ観音など他にも見どころが多い。湖南アルプスの景観は、1200年以上前、藤原京、平城…
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京都紹介・・・秀吉が信長葬儀を行った大徳寺総見院

総見院は大徳寺22塔頭のうちの一つで、豊臣秀吉が織田信長の一周忌追善のため創建した寺である。本能寺で明智光秀の謀反で自刃した信長の遺体も骨も見つからず、秀吉は信長の木像を二体造り一体を荼毘に付しここに葬ったという。残る一体が本堂に安置されている。総見院には信長一族の墓があり、鐘・鐘楼はともに重文で、加藤清正が朝鮮から持ち帰った掘り抜き井…
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京都の平安時代から室町時代・戦国時代の山城・平城跡めぐり

京都には観光的に使われていないのでもったいないといつも思う平安時代から室町時代・戦国時代の城跡がかなりの数残っている。その一部をここでご紹介する。山城跡に登ったり、平城跡へ出かけ、これらの遺構や史跡巡りをして見るのは普通の史跡めぐりとは一味違う面白さがある。これらの場所で当時どんな攻防の戦闘が行われたのか、想像を豊かにして見るだけでも歴…
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京都の史跡・・・羽束師菱川の菱川城跡

伏見区の羽束師菱川町に観音寺がある。この周りは室町時代に菱川城があったと推定されているという。調査に同行する機会があり、周辺を観察するが、教示されるように用水路は堀跡と思われ、土塁の土盛りらしきものも見受けられた。観音寺には当時のものと思える宝筺印塔や石垣も残っている。北側の駐車場付近が6月に発掘調査が行われていて、見学をさせていただい…
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京都紹介・・・松尾大社(まつのおたいしゃ)と月読神社(つきよみじんじゃ)

8世紀初頭に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が葛野大堰に居住する秦氏一族の氏神として松尾山上にある磐座を麓に勧請して創設したのが松尾大社である。平安京遷都後は賀茂社とともに王城鎮護の神となり、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されたという。祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)は賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)の父神であり、上賀茂神社と下鴨…
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京都紹介・・・西京区山田地区にある古墳

西京区は松尾大社が葛野大堰地区で活躍した秦氏の氏寺になる。また、この付近の円墳は大半が秦氏の墳墓だと見られている。前方後円墳も見られるが、それらは秦氏が居住する前に支配力を持っていた氏族のものと考えられている。昨年にも紹介したがこの付近の古墳を今一度訪問してみた。 松尾谷山田町にある西芳寺の横を流れる西芳寺川の上流に、石室が完存する古…
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京都紹介・・・通称小町寺「補陀洛寺」(常寿院跡)と元寺になる静原の山寺「補陀落寺」跡

京都の市原に補陀洛寺(通称小町寺)がある。ここの創建は不詳だが、11世紀後半に後冷泉天皇の皇后藤原歓子(ふじわらのかんし;よしこ)が天皇の崩御後隠棲された小野の山荘(後に常寿院を建立)の地だという説もある。境内に鎌倉時代の小野皇太后(藤原歓子)の宝筺印塔が建っている。また、この周辺は小野の地で、本堂に小野小町の老衰像(室町時代)が安置さ…
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京都紹介・・・左京区岩倉周辺の瓦窯跡や古墳群

京都市左京区の岩倉周辺には瓦窯跡や古墳群がかなり残されている。しかし、そこで生活する人々はほとんどそれを知らないだろう。縄文時代、弥生時代の痕跡も残す岩倉地区には古墳群も残されている。また、寺の瓦を焼いた平安時代以前の古い瓦窯跡もあり、平安時代には平安宮の瓦を焼く瓦窯ができる等、この辺りは瓦窯工場群となっていたと思われる。何度も調査に歩…
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京都紹介・・・北野天満宮と御土居

豊臣秀吉が1591年に京都改造事業の一つとして行った御土居築造工事はわずか数カ月の期間で完成し、御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼ぶようになった。京都を囲む約23kmの御土居堀は京都を城郭都市とし、1586年の聚楽第建設、1588年の方広寺建設、1590年の短冊形町割と寺町・寺之内の造成、1591年の本願寺の移転などとともに、平安京以来…
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京都紹介・・・太秦にある秦氏ゆかりの神社と古墳

昨日秦氏が建立した広隆寺をご紹介したが、太秦には秦氏ゆかりの神社や古墳が多い。仏教が伝わり寺ができる前は神社が豪族の先祖神の祭祀所だった。また、支配力を示すには古墳の規模が必要だったという。広隆寺の隣に大酒神社があり、また少し東に足を伸ばすと木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という、通称「蚕ノ社」と称される古社が…
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京都紹介・・・聖徳太子建立七大寺の一つ、太秦(うずまさ)の「広隆寺」

太秦にある広隆寺は嵐電の通りに面し、風情ある京都らしいお寺だと思う。平安京遷都の頃この地に移転したと言い、それまでは蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)と称し、一説には7世紀初頭の北野廃寺がそれだともいう。秦河勝が聖徳太子より仏像を賜り、それを本尊として蜂岡寺建立に着手したことが伝わっている。その本尊が現在霊宝殿に祀られている国宝第一号の弥…
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京都紹介・・・京都市考古資料館で公開中の堀河院跡から出土した土器に書かれた「いろは歌」

新聞にも掲載されましたが、現在京都市考古資料館では平安京左京三条二坊・十町(堀川通御池北東周辺)の堀河院邸宅跡と推定される場所から出土した、土器に書かれた「いろは歌」を展示しています。30年前に市埋文研が発掘調査した、遺物を再調査した結果発見されたもので、「いろは歌」がほぼ完全な形で残る貴重な資料となりました。平仮名「いろは歌」がほぼ完…
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戦国武将秘話・・・寺町仏光寺にある乗願寺さんの森本右近太夫の墓

寺町仏光寺下ルに乗願寺さんがある。賀茂川の朝散歩で顔見知りになったこのお寺の岩井住職によると、寺はもと五条坊城付近にあり、豊臣秀吉の京都改造で寺町に移ったが、3000坪ほどあった大寺だったという。明治時代の神仏毀釈で現在の敷地は狭まったが、このお寺には加藤清正の重臣で、四天王のひとりと言われた戦国武将の森本儀太夫の墓がある。また、その息…
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京都紹介…嵯峨清凉寺の「大念仏狂言」

京都の三大念仏狂言の一つに嵯峨清凉寺の大念仏狂言がある。ここの狂言と壬生寺、千本ゑんま堂の三つが数えられていて、清凉寺と壬生寺は無言劇で千本ゑんま堂にはセリフがある。神泉苑にも同様の狂言があり、いずれも鎌倉時代末期の円覚上人が始めた宗教と芸能を交えた大念仏会が始まりと聞く。清凉寺の墓地には円覚上人墓もある。壬生寺は写真撮影ができないが、…
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京都紹介・・・西賀茂角社町にある大将軍神社と瓦窯跡

京都に平安宮が造られる時、官衙建築に必要な膨大な量の瓦が必要になった。それらを焼いた場所が、西賀茂や岩倉幡枝、上高野に瓦窯跡として残っている。遺跡発掘でそれらの場所が特定されているが、今はほとんどが住宅地に変貌した。西賀茂角社町にある大将軍神社もその一つで、境内の北東側にはその痕跡が残されている。昨年の6月にここへ訪れた際、たまたま北東…
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京都景観散歩・・・花脊経塚があった旧花脊峠付近と経塚碑のある花脊別所福田寺(ふくでんじ)

旧花脊峠付近に経塚(きょうづか)があり、昭和時代の初め頃、そこから出土した遺物は大部分が重要文化財に指定され、京都国立博物館に保存されている。現在、そこは植林されたためほとんどその痕跡を残していない。その時に建てられた経塚石碑は別所にある所有者の福田寺の門前に移されている。いにしえの人の祈りを込めたタイムカプセルがあった場所に、紅葉時と…
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京都紹介・・・右京区京北芹生(せりょう)の灰屋川上流にある勢龍(せりょう)天満宮と不動平

右京区の京北芹生に流れる灰屋川上流に小さな神社がある。林道をこの神社に向かおうとすると、急に非常ベルが鳴るので驚いてしまう。大事な神社なので、火災に気を付けてくれとの警鐘なのだろう。京都はこのように山奥の神社にもいわれがあるので、奥が深いと驚くしかない。この勢龍天満宮は、日本三大歌舞伎『菅原伝授手習鑑』に登場する、武部源蔵の寺子屋跡地だ…
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京都紹介・・・「菅原道真公生誕の地」とされる吉祥院天満宮

京都には「菅原道真公の生誕の地」とされる神社が3つある。一つ目は上京区の烏丸丸太町を北へ少し行ったところにある菅原院天満宮神社(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ)であり、ここに「菅家邸址」の石碑が建ち「道真公産湯の井」と称されるものが置かれている。二つ目は下京区の仏光寺通新町にある菅大臣神社(かんだいじんじんじゃ)である。ここも「菅原道…
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京都紹介・・・教王護国寺(東寺)の波切不動明王と石上(いそのかみ)神社

神社にはその地を地盤とした人々のルーツが秘められていることが多いと思う。メジャーな神社は明治維新で姿を変えることを余儀なくされたので、そのなりたちはわかりにくくなっているが、人知れず残された神社ほど、それを想像する興味を湧かせるものを残している。教王護国寺(東寺)といえば世界遺産で知られた弘法大師の聖地だが、その鬼門に当たる東北の隅に、…
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京都紹介・・・山陰街道(旧国道9号線)にある兒子(ちご)神社

国道9号線を樫原秤谷交差点から旧道に入り、大枝小学校を過ぎて少し西に行くと、北側に小さな神社がある。長い参道があり、その奥に兒子神社が建っている。車で通れば目に入らぬ神社だが、こういう神社には歴史が埋もれているようで興味深い。大枝の古名を宇波多(うわた)と呼ぶことから、この神社は平安時代の乙訓郡茨田(うわた)神社の跡地という説もあり、聖…
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